自殺者減少はハッピーなニュースなのか!?
自殺者が減少しているというニュース。
事実として、9年連続自殺者が減少しているのだそう。
www.sankei.com
しかし…。
私は、最近のニュース=政府のプロパガンダではないか?と思ってしまっている。
ので、こんなニュースをみても、こう思う。人口が減ってるから当たり前じゃないか
そう、人口が減ってるから、同じように自殺者も減ってるだけで、まったくいいニュースじゃねえよ、と。これは、一定の理があるように思える。この理論にたつと、人口の減少の割合と、自殺者減少の割合が一致することになる。
ということで、調べてみた。
人口が減っているから、自殺者も減っているのか?
調べ方は簡単である。厚生省が公開している統計を見ればいいのだ。
過去5年の自殺者と人口をまとめてみたのがこちら↓。
自殺者は、5年前と比べると、18.1%下がっている。これは、結構なパーセンテージだ。対して、人口。なんだかんだ、0.5%下がっているのみ…。
私が勝手に思うようには、激減していない。まぁ、当たり前といえば当たり前だが。そう、これをみると、私の考え(人口の減少比率と自殺の減少比率が一致)は間違っていたことになる。
だって、これが正しかったら、人口は5年前に比べて、18%近く減っていなけりゃいけないもんね。
18%減となると…1億2700万人→1億420万人(🔽2,280万人)
もはや巨大な災害で絶滅クラスである。(実際は🔽64万人)
ということで、プロパガンダではなく、自殺者数が下がったというのは、いいニュースなのである。とはいえ、いぜん2万人以上が自殺で死ぬっていうのは異常事態だし、世界でも14位にランキングする自殺大国には変わりない。
10-19歳の自殺者は増加している!?
いやー自殺者少なくなっててよかったねぇ。と胸をなでおろすのは、ここまでにしよう。こちらの記事。
そう、私も統計を見ていて気づいた。
10-19歳の若年層の自殺者がむしろ増えているのである!少子高齢化のこの時代である。こんなに若者が貴重な時代にである!!
一目瞭然に増加している。そして、刮目すべきなのは70代と80歳以上。減っているが、安定感のある自殺者の数字である。
これをみてわかることがある。
日本とは、「未成年と高齢者が死にたくなる社会」ということだ。とても正常とは思えない!
上の数字を見ると、とはいえ、自殺者500人台でしょう?一番少ないじゃない!と思う輩も多いだろう。では、次を見てほしい。
10代の死者、100人中35人は自殺である!
はっきりいって、10代は肉体的に健康である。筋肉も内臓もバリバリ元気である。
なので、死者自体が他の世代に比べて、圧倒的に少ない。10代は、全体的に1600-1700人くらいが毎年の死者である。そのうちの、500人以上が自殺者…この数字がいかに異常かわかるだろうか。
2018年の全死者数が見つけられなかったのでわからないが、2017年の統計だけとっても、10代全体の死者数の35.3%は自ら、あと70年くらいは余裕のLIFEを終わらせているのだ。
もったいなさすぎるよ!
ちなみに、私40代のおじさんの死者数とその中の自殺者数も調べてみた。
ほら、やっぱり。死因が自殺なのは16.1%だよ。40代はまだ死ぬ年齢ではないけど、病気がちらほら出てくる年齢。だから、そこそこ死んでるけど、自殺率は10代の半分以下である。
自殺者減少はハッピーなニュースであるが…
厚生省の資料に基づき、自殺者の減少はいいニュースなのかを勝手に検証した。
結果わかったこと(2014-2018年までの統計をもとに)
- 自殺者の減少率は、人口の減少率をはるかに上回る
- 唯一、10代(10-19歳)の自殺者数は増加している
- 70代、80代の自殺者数はあまり減っていない
ちなみに、この資料を見てほしい。5年間の死者数と出生数である。
日本は、どうあがいても、人口が減る。出生数はあがらず、死者数はあがるからだ。死者数から出生数を引いてでた数字が、人口減または増の数字である。
単純な引き算だ。
2014年は、269,465人減った。2018年は、448,000人減った。
今年は、どのくらい減るだろうか。50万人いくのではないか?
なぜか、2015年はふわっと出生率が微増したが、ソレ以降は、出生数は減少している。
※ちなみに2015年の微増は、前年・前々年の好景気や子育て支援が影響しているとの見方がある
若者は、減っていく。高齢者は、増えていく。そして…。
減っていく若者が生き辛く
増えていく高齢者も生き辛い
統計をみると、とてもハッピーではない日本の姿がわかる。
自分なりに調査することの重要性
まぁなにはともあれ、私の浅はかな考えは、ちょっとした調査によって変化した。
そう、重要なのは
- 一つのニュースを見る
- 自分なりに調べる
- 意見が変わる(もしくわ、補強する)
このスパイラルである。公的なニュースとはいえ、結局は誰かが一定の視点を持って、まとめたものである。それを疑ったりすることはとても大事なのだ。
ちなみに、私の意見はこう変わった。
以前
「人口が減っているから、自殺者も減っていて当たり前じゃないか!」
現在
「自殺者が減っているのは、素晴らしいことだよ。でも、10代の未成年の自殺者は、増えているんだよ。だから、単純に喜んでいいことではないよ。加えて、70歳以上の高齢者の自殺も相変わらず多い。未成年と超高齢者に優しい社会がこれから望まれるね」
えらい、知的になったきがする。
それはそうなるよね、小1プロブレム問題
小1プロブレムという言葉があるらしい。
幼児教育で主体的に、のびのび育った子が、小学校の締め付け教育によって、押し黙り困惑する状態。学級崩壊にもつながるらしい。
箸のあげさげや、給食残さず食べる、号令によるきをつけ、先生の長い話を姿勢を伸ばして聞き続ける。まぁ、日本古来の集団教育なのだが、幼稚園・保育園との隔たりに子どもがついていけず、結果、萎縮してしまうのだ。
昔ってこんな言葉も、こんな状態もなかった気がするが…。
これを紐解くヒントが身近にあった。息子が通う幼稚園だ。
どうやら、ここを卒園した子どもたちは、公立小学校でかなりのリーダーシップを発揮しているらしい。小1プロブレムなど、皆無である。
だからといって、特別な幼児教育メソッドを行っているわけではない。
息子の幼稚園は、古い歴史があり、どちらかといえば厳しい躾の昭和の幼稚園である。
やっていることが、公立小学校と抜群の相性である。
やんちゃな子どもたちが、運動会やお遊戯会になると、笛の音ともに姿勢をただし、もう一度ピッとなると行進する。
「えっ、うちの子が?」最初見たとき、驚いた。が、それだけ子どもたちに集団行動の練習を日々させている成果であろう。いや、まぁ決してこの園の教育がいいとは思わないけど、連続的に考えると(公立小学校に入れるなら)、この幼稚園で良かったと思う。
おもえば、最近の幼稚園や保育園など、幼児教育はかなり多様化してきている。
子供の自主性を伸ばすメソッドを取り入れ、個性をぐんぐん伸ばす子どもたち。
世界的に有名なモンテッソーリ教育などは、まさに、自主性を発芽させることに力点をおいている。
小1プロブレムは、きっと、自主的な教育でたっぷり育った子どもに起こる現象だ。
日本は、幼児教育が充実してきたが、小学校教育はまったく充実していない。
なので、モンテッソーリで育った子どもは、公立に行くべきではないと個人的には考える。自主性のある、小学校に行くべきだ。
しかし、その条件を満たす小学校は、公立に関しては皆無だろう。そうなると、かなり経済的に裕福な人しか、行かせることが出来ない。幼児教育だけが、充実してしまったこと。小1プロブレムの本質は、ここにある気がする。
もちろん、私も、子供の教育は自主性を伸ばす教育がいい。でも、その教育を一貫して受ける財力がないのなら、むしろ害悪では?とすら思ってしまう。
先に身につけたものを否定されるより、いっそ、求められるなら、先に身につけておいたほうがいい。
飛び級などがあるアメリカと違って、幼児期に花開いた才能を、ピックアップしてくれるシステムも日本にはない。
ただ、実際に変えていかなくてはいけないのは、教育のギャップをなくすことだ。
日本としてかつて選んでいた集団教育。しかし、今は、それがよくないとされている。
その声は、まず、私立が多い幼児教育の施設に反映される。そして、多様な教育がなされている幼児教育。しかし、小学校がまったくついてきていない。
というか、ソレ以外の問題。教員の過労問題のほうがフォーカスされている。この状態で自主的な教育の導入を希望しても、無理だろう。
そんな考察をしながら、
最後に、小1プロブレムの意味を引用してみた。
小学校入学直後の児童に見られる問題行動。授業中に落ち着いて話を聞くことができず、騒いだり、歩き回り、注意されると感情的になるなどして、集団行動がとれず、学校生活に適応できない。制約の少ない幼稚園・保育園と規則の多い小学校の環境の格差、家庭教育の欠落・不足による基本的生活習慣・自制心の獲得の遅れなどが原因とされる。
(デジタル大辞泉 より)
いまさらなるほど。高度な教育とのギャップというよりも、内容の格差という感じかな。確かに、そういう面はあるな。ちょっと、的を絞りすぎたかも。
タイムスリップして人生をやり直すときの大問題
自分の人生は最高だ!そう思える人ならいいが、そうでない場合は、タイムスリップとか憧れるかもしれない。しかも、自分の記憶を保持したまま戻るのだ。
よくあるのが、競馬とか株式とか、当たる馬や銘柄を覚えていて、戻っておお金をせしめるというのがある。
未来警察とかが来ないのなら、やっぱり、お金の面でそういうことをしたい!
経済的な不安が解消されれば、かなり生きやすくなるしね。
具体的に想像してみる。十年前にタイムスリップ。
その頃といえば、結婚したばかりだ。さて、この記憶を保持したまま何をするか?
はっきりいって、とくにやることはない。
爆発的にあがる株を知っているわけではない。ギャンブルも知らない。
あえてメリットがあるとすれば、記憶のある妻とのトラブルを避けるくらいか…。
うーん、しょぼいな。
社会的には、この十年の間に、いろいろな災害やら事件が起こり命が失われている。
そう考えると、記憶を保持しているだけに、助けに行かなきゃとかいう気分になる。
東日本大震災の現場で、「おおーい、津波が来るから逃げろー」と叫ぶのか。
信用する人はほとんど、いないだろう。変人扱いだ。逮捕されるかもしれない。
こころもとないな、タイムスリップって。
それとは別で、タイムスリップには大問題がある。
「アバウトアタイム」という映画に出てきたあるシーンだ。
タイムスリップして、戻ってきたら、記憶にない子どもが目の前にいるというものだ(男の子が女の子になっていたんだっけ?)。
そう、たとえ、妻と付き合う前に戻ろうと、妻という存在はこの世界に存在する。
うまいこと、演出し、また付き合い、結婚するところまで持っていける可能性はある。
しかし、まったく同じDNA配列をもって、今の子が生まれてくる可能性は、ほぼ皆無だ。
そう、タイムスリップして、同じ時期くらいにセックスをしても、同じ子どもが生まれてはこない。この事実は、結構、衝撃的だ。
タイムスリップ後、いまとは別の子どもたちを育ててる私。
その子達は、おとなしく育てやすい。顔も可愛いかもしれない。
でも、絶対にいやだな。
タイムスリップって、この世界に存在しているものを変えるのはできるけど、その時点で存在していないものは、抹消されてしまう可能性があることなんだなぁ。
良い夫であり良い父親は、つまらない男である
かなり、家事や育児をしている。
妻が、なにかイベントがあって行くというなら、快く送り出す。その間は、ワンオペ育児であるが、なんとか、一日を過ごす方法をひねり出して、なんとかする。
最近では、チャリンコで30分の公園で子供のレンタル自転車ができるので、そこで過ごす。
チャリを漕ぐ息子と娘を追いかけながら、ほどよいところで、テントを張る。
そして、コンビニで買ったお菓子や昼飯を食べる。
その後滑り台や、ボヨンボヨンするトランポリン、ターザンなどがある広場で遊びまくる。
結構広い公園なので、あっという間に、4時間くらい経過。
チャリンコの上で頭をグラングランさせながら、うたた寝をする息子娘を、絶妙なバランスで支えながらライド(結構あぶねえ)。
無事帰って、その後夕食の準備。こんな感じも、慣れたもの。
もちろん、日々の送り迎えだとか、習い事とか、妻のほうが子供と接する時間は多い。
育児の第一責任者ってやつだ。
しかし、第二責任者のわたしがいるからこそ、妻もがんばれているところはあるかも。
手厚いサポートをしている自負はある。
自分で言うのもなんだが、わたしは、良い夫であり、良い父である。
しかしながら、男として人として、今、魅力的かといえば、否といわざるを得ない。
はっきりいって、かなりつまらない日々といえる。
仕事を定時ではけて、スーパーで牛乳や食材を購入し、家へ直行。
飲みに行ったりは、ほぼしない。休日の予定もほとんどない。
今現在、夢や野望もなければ、遊びのバリエーションも持っていない。正直、他人がわたしから得るものはほぼない。
退屈なやつだ、と一笑に付される可能性すらある。
いや、実際退屈なやつに違いない。
しかし、皮肉なことに、だからこそ、良い夫であり良い父親になり得るのである。
わたしがめちゃ面白い人生を謳歌していたら、どうだろうか。
きっと、家族は犠牲になっているに違いない。
要は、優先順位の問題である。どこに焦点をあてるか。
家庭にめちゃ焦点をあてると、必然的につまらない男になる。
とても、不倫などできない、というか寄って来ない。と思う。
たまに、対外的にも充実していて、家庭にもすごいコミットしている人がいるが、信用ならない、と思っている。けっして、嫉妬ではない。(強がり)
だからといってはなんだが、地味な生活を愛する男は、良い家庭人になる可能性が極めて高い。
しかし、悲しいかな、恋愛市場においては、そういう男は弱者である。
モテないんだな…。
女性たちには、ぜひ、そういった地味ながら、あとから実力を発揮する男を見抜いてほしい。
きっと、幸せになれるはずである。長い目で見れば。
夜間に起きると、レム睡眠はとれない!?
睡眠というのは、最近のパワーワードではないだろうか?とにかく、眠ろう!そうすれば、人生が好転する。
たまに、こういった趣旨の記事をみる。
科学的な検証をみると、これは正しいのだろう。中には、6時間では十分ではなく、8時間は必要だというようなものもある。
私は、だいたい夜11時に寝て、朝5時に起きている。約6時間である。
びっくりするほどの朝型生活である。
最近は特に、夜いろいろせず、もう、潔く子どもと寝てしまうことを選択している。そのかわり、朝はかなり活発に活動している。ジョギングしてからのオンライン英会話。ストイックだなぁとよく言われる。
しかし、ただの慣れだ。
ところで、ノンレム睡眠とレム睡眠というのは聞いたことがあるだろうか。
ノンレムが深い眠りで、体を休めるお眠り時間。
レムが浅い眠りで、記憶を定着させたりする脳のためのお眠り時間。
それぞれ1.5時間ずつ振り分けられており、睡眠中はノンレムとレムを繰り返すのだ。
私の場合、ノンレム(体)→レム(頭)→ノンレム(体)→レム(頭) これで、合計6時間。理想的な感じがするのではなかろうか。
しかしながら、大きな問題がある。眠りが中断するのだ。頻繁に。
私は、とても頻尿だ。
はっきりいって、夜間に2回は起きる。
さらに、子どもたちは、夜間おしっこに行きたい時など、妻ではなく、私を叩き起こす。文字通り叩いて起すのだ。
ということで、もれなく、夜平均3回は起きてしまう。
そうなると、この繰り返しはこうなる。
ノンレ… リセット。ノン… リセット。ノンレム→レ… リセット。
ほとんど、レムってないんじゃないの!?という気がする。
レムが少ないと記憶が定着しない。
なるほど。そういうわけで、年寄りは忘れっぽいのか…。
私も40代ではあるが、頭の記憶力がかなり甘い。レム睡眠が異常に少ないからではなかろうか…。
そんなこんなで、最近の願望はこれだ。
夜間起きずに連続して寝たい!
そうすれば、なんか人生が好転しそうな気がする。
ここで、朗報!
人間は、睡眠の最初の3時間で必要な休息のほとんどをとるのだそう。
●どのくらい眠ればいいの?
個人差があるので一概には言えませんが、ノンレム睡眠(90分)とレム睡眠(90分)のサイクルを4回、つまり約6時間の睡眠で十分といわれています。また、脳は眠りはじめの3時間で必要な休息のほとんどをとるので、3時間でよいという人もいます。ー 日本医師会 あなたの健康を応援する 健康の森 より ー
ということは、3時間なんとか眠り続けられれば、かなりいいのでは?
11時に寝て、2時まで。これは、なんとなくクリアできそう。
とりあえず、次のことを心がけてがんばろう。3時間連続睡眠を。
- 睡眠1時間前は、電子系を見ない。
- ホットミルクを飲む。
寝室は、子ども別部屋か同じか 論争からみる物事の二面性
日本人は川の字で寝るってくらいだから、幼いうちは親は子供と一緒に寝るのが普通って家庭は多い。
しかしね、これは、間違いだと思う。
欧米では、子どもは小さい時から、別部屋。泣いたって構わない。
そうすることで、自立が早まるのだ。
しかも夫婦は、結婚して子どもができようと、同室で二人で寝る。
それによって、ロマンスも相変わらず生まれる。
だから、セックスレスになんかならないのだ。
日本人は、セックスレス家庭が多い!これは、子どもが生まれたら、一緒に寝てしまうのが原因だ。夫婦は円満、子どもは自立。
幼くして、部屋を別室にする効果は計り知れないのである。
ぜひとも、欧米にならって、子どもが幼いうちから、部屋は別部屋にしよう!
_①
欧米では、幼いうちから、親と子どもは別室にするらしい。
これによって、子どもは早いうちから、自立心が生まれ、自分のことは自分でできるようになる。
こんな意見に、騙されている人は多いのではないだろうか?
なにかといえば、欧米は…ウンタラカンタラという意見が好きな人は、これを聞くと、すぐ子どもを別室にと焦るだろう。
しかし、果たして、欧米と日本の環境は同じだろうか?
欧米人のスキンシップの多さはおなじみだ。
結構、大きくなってもハグやキスを親子でする。
かたや、日本人は、育つごとに接触の機会が減っていく。
これは、文化の問題だ。
だから、幼いときは、日本人は一緒に寝て、欧米人のスキンシップの量を幼いときにカバーするのである。
そういう意味では、川の字というのは、日本人の文化スタイルにがっちり適合しているわけである。
子どもを別室にし、育ってもスキンシップなし。
トータルの接触時間が少ない子どもは、愛情不足に陥ってしまう。
_②
さて、ほとんど同じテーマで語っている。子供と一緒に寝るか、別室か。
最初にいえば、私は、②を支持している。
というか、最初から同室なのでいまさらという感じである。
しかし、①の論を見た時、しまった!と思った。
そっちかと。
そのあと、いろいろ探して、②の意見に当たった。
やっぱり、正しかったんだと安心した。
物事には2つの側面がある。そして、人間は、自分のやっていることを肯定してくれる意見に安堵しやすいし、逆の意見に反発を覚える。
しかし、どちらも等しく、正しい意見である。
そう言われればそうだし、こう言われれば、やっぱり、これはこれで正しいな、と。また、こういう意見は、子育てや健康など、答えのないテーマほど真逆の面をもっている。
自分の正しさを主張するのは虚しい。
要は、いろいろな面があるが、私はそれを踏まえつつ、こちらを選んでいるんだという態度が大事なのだろう。
だがしかし、①と②はよく考えると同じテーマだがアプローチが違う。
②でいえば、スキンシップの量が問題なら、育っても、変わらずやればいいだけの話である。
神様の分かち合いに誘われたら…
比較的宗教的な人々が周りに多い。というか、キリスト教であるが。
でも、私自身は信心はあまりない。
でも、否定はしないし、理解もしている。
そんな私に、分かち合いのお誘いをしてくる年上の知り合いがいる。もちろん、彼は、私のスタンスは理解している。
しかし、時々、このようなお誘いがある。
いや、結構久しぶりかな。
まぁ、彼の家庭にお邪魔し、一緒に食事をする会だ。他にも誘っているらしい。
その食事の際に、いかに自分の人生に神様が働きかけたかを話してくれるらしい。
はっきりいって、興味がないといえば、ない。
彼は奥さんと子どもがおり、私もいる。家庭同士の交流であるが、そこに宗教が絡むとちょっと気が引ける。
彼の家族は、クリスチャンである。メジャーな流派である。
しかし、その中でもさらに細分化しており、けっこう急進的なグループらしい。
なので、まあ、信仰心はアツイ。
あからさまに勧められたりはしないが、ちょっと圧迫感はある。
でも、仲がよい人だし、行ってみるかと思っている。
なぜなら、子どもたちのためかもしれないと思うからだ。
いろいろな、家庭が世の中にはある。
そして、世界的に有名な宗教と触れ合う機会は、我々世代より、圧倒的に子どもたちに多いかもしれない。
宗教?
こわいこわい。
という閉鎖的な時代はもはや過去。
積極的に触れ合うのもいいのかもしれない、と思うのだ。
そもそも、宗教ってなんだろうか?という問いは常にもっているが、私には解けない。
最寄りの駅では、「エホバの証人」や「モノミの塔」などの信者さんが熱心に活動なさっている。
どちらかといえば、人から敬遠される派閥だろう。見た感じ、感じの良い人たちである。
でも、ぱっと見ると、やはりひいてしまう自分はいる。
だって、自分の知り合いが、駅で活動していたらやっぱり、えっ!?て思うもんね。ピンポーンって訪ねてきたら、ちょっときついなって。
でも、彼らは、お金のためにやってはいない。まぁ、邪な人もいるかもしれないが、単純に、自分が救われた良いと思うものを、人に紹介したくて仕方ないわけである。
だれだって、こういったボランティア精神はあるでしょ。
料理に使ってよかった道具。これ、いいんだよって人に勧める感覚。
たまたま、それが、宗教ってだけでは?とも思っている。
しかし、日本において、やっぱり、オウム真理教が残した宗教への嫌悪は大きいのだろう。
宗教となると、どうしても、それを思い浮かべる。
でも、あんなにヒドイことになったあとでも、オウムはまだ消えていない。底に潜む、宗教の強さというものは無視できないと思うなぁ。
そういった意味でも、身近に実害のない信仰心のアツイ人がいるのは、ありがたい。
その人自身をよく知っているがために、自分に害はないしね。
たしかに、不安要素もあるが(分かち合いを振られるなど…)、誘われたからには家族で参加してみよう。
なにより、昔からの知り合いだし、単純に楽しいからねいろいろな人と絡むのは。
世界的には、キリスト教などの宗教に対する信心自体が減っているらしい。
そこに来て、聖職者の性虐待問題なども出てきた。宗教に対する信頼は揺らいでいる。
個人的には、死へ直面したときや、重い病や苦痛の時に、捧げる祈りや聖歌。
このバリエーションの多さは、キリスト教の魅力だと思う。
なにか究極の状態のときに、一心に祈るという行為ができるのは少しだけ羨ましい。