神様の分かち合いに誘われたら…
比較的宗教的な人々が周りに多い。というか、キリスト教であるが。
でも、私自身は信心はあまりない。
でも、否定はしないし、理解もしている。
そんな私に、分かち合いのお誘いをしてくる年上の知り合いがいる。もちろん、彼は、私のスタンスは理解している。
しかし、時々、このようなお誘いがある。
いや、結構久しぶりかな。
まぁ、彼の家庭にお邪魔し、一緒に食事をする会だ。他にも誘っているらしい。
その食事の際に、いかに自分の人生に神様が働きかけたかを話してくれるらしい。
はっきりいって、興味がないといえば、ない。
彼は奥さんと子どもがおり、私もいる。家庭同士の交流であるが、そこに宗教が絡むとちょっと気が引ける。
彼の家族は、クリスチャンである。メジャーな流派である。
しかし、その中でもさらに細分化しており、けっこう急進的なグループらしい。
なので、まあ、信仰心はアツイ。
あからさまに勧められたりはしないが、ちょっと圧迫感はある。
でも、仲がよい人だし、行ってみるかと思っている。
なぜなら、子どもたちのためかもしれないと思うからだ。
いろいろな、家庭が世の中にはある。
そして、世界的に有名な宗教と触れ合う機会は、我々世代より、圧倒的に子どもたちに多いかもしれない。
宗教?
こわいこわい。
という閉鎖的な時代はもはや過去。
積極的に触れ合うのもいいのかもしれない、と思うのだ。
そもそも、宗教ってなんだろうか?という問いは常にもっているが、私には解けない。
最寄りの駅では、「エホバの証人」や「モノミの塔」などの信者さんが熱心に活動なさっている。
どちらかといえば、人から敬遠される派閥だろう。見た感じ、感じの良い人たちである。
でも、ぱっと見ると、やはりひいてしまう自分はいる。
だって、自分の知り合いが、駅で活動していたらやっぱり、えっ!?て思うもんね。ピンポーンって訪ねてきたら、ちょっときついなって。
でも、彼らは、お金のためにやってはいない。まぁ、邪な人もいるかもしれないが、単純に、自分が救われた良いと思うものを、人に紹介したくて仕方ないわけである。
だれだって、こういったボランティア精神はあるでしょ。
料理に使ってよかった道具。これ、いいんだよって人に勧める感覚。
たまたま、それが、宗教ってだけでは?とも思っている。
しかし、日本において、やっぱり、オウム真理教が残した宗教への嫌悪は大きいのだろう。
宗教となると、どうしても、それを思い浮かべる。
でも、あんなにヒドイことになったあとでも、オウムはまだ消えていない。底に潜む、宗教の強さというものは無視できないと思うなぁ。
そういった意味でも、身近に実害のない信仰心のアツイ人がいるのは、ありがたい。
その人自身をよく知っているがために、自分に害はないしね。
たしかに、不安要素もあるが(分かち合いを振られるなど…)、誘われたからには家族で参加してみよう。
なにより、昔からの知り合いだし、単純に楽しいからねいろいろな人と絡むのは。
世界的には、キリスト教などの宗教に対する信心自体が減っているらしい。
そこに来て、聖職者の性虐待問題なども出てきた。宗教に対する信頼は揺らいでいる。
個人的には、死へ直面したときや、重い病や苦痛の時に、捧げる祈りや聖歌。
このバリエーションの多さは、キリスト教の魅力だと思う。
なにか究極の状態のときに、一心に祈るという行為ができるのは少しだけ羨ましい。