R太のスパークリング日和

R太です。40代のおじさんです。男女2人の子育てと家事にフルコミット中。 どうにもならない日々のいらだちや喜びを書いてます。

それはそうなるよね、小1プロブレム問題

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小1プロブレムという言葉があるらしい。
幼児教育で主体的に、のびのび育った子が、小学校の締め付け教育によって、押し黙り困惑する状態。学級崩壊にもつながるらしい。

箸のあげさげや、給食残さず食べる、号令によるきをつけ、先生の長い話を姿勢を伸ばして聞き続ける。まぁ、日本古来の集団教育なのだが、幼稚園・保育園との隔たりに子どもがついていけず、結果、萎縮してしまうのだ。

昔ってこんな言葉も、こんな状態もなかった気がするが…。

これを紐解くヒントが身近にあった。息子が通う幼稚園だ。

どうやら、ここを卒園した子どもたちは、公立小学校でかなりのリーダーシップを発揮しているらしい。小1プロブレムなど、皆無である。

だからといって、特別な幼児教育メソッドを行っているわけではない。

息子の幼稚園は、古い歴史があり、どちらかといえば厳しい躾の昭和の幼稚園である。

やっていることが、公立小学校と抜群の相性である。

やんちゃな子どもたちが、運動会やお遊戯会になると、笛の音ともに姿勢をただし、もう一度ピッとなると行進する。

「えっ、うちの子が?」最初見たとき、驚いた。が、それだけ子どもたちに集団行動の練習を日々させている成果であろう。いや、まぁ決してこの園の教育がいいとは思わないけど、連続的に考えると(公立小学校に入れるなら)、この幼稚園で良かったと思う。

おもえば、最近の幼稚園や保育園など、幼児教育はかなり多様化してきている。

子供の自主性を伸ばすメソッドを取り入れ、個性をぐんぐん伸ばす子どもたち。

世界的に有名なモンテッソーリ教育などは、まさに、自主性を発芽させることに力点をおいている。 

小1プロブレムは、きっと、自主的な教育でたっぷり育った子どもに起こる現象だ。

日本は、幼児教育が充実してきたが、小学校教育はまったく充実していない

なので、モンテッソーリで育った子どもは、公立に行くべきではないと個人的には考える。自主性のある、小学校に行くべきだ。

しかし、その条件を満たす小学校は、公立に関しては皆無だろう。そうなると、かなり経済的に裕福な人しか、行かせることが出来ない。幼児教育だけが、充実してしまったこと。小1プロブレムの本質は、ここにある気がする。

 

もちろん、私も、子供の教育は自主性を伸ばす教育がいい。でも、その教育を一貫して受ける財力がないのなら、むしろ害悪では?とすら思ってしまう。

先に身につけたものを否定されるより、いっそ、求められるなら、先に身につけておいたほうがいい。

飛び級などがあるアメリカと違って、幼児期に花開いた才能を、ピックアップしてくれるシステムも日本にはない。

 ただ、実際に変えていかなくてはいけないのは、教育のギャップをなくすことだ。

日本としてかつて選んでいた集団教育。しかし、今は、それがよくないとされている。

その声は、まず、私立が多い幼児教育の施設に反映される。そして、多様な教育がなされている幼児教育。しかし、小学校がまったくついてきていない。

というか、ソレ以外の問題。教員の過労問題のほうがフォーカスされている。この状態で自主的な教育の導入を希望しても、無理だろう。

 

そんな考察をしながら、
最後に、小1プロブレムの意味を引用してみた。

小学校入学直後の児童に見られる問題行動。授業中に落ち着いて話を聞くことができず、騒いだり、歩き回り、注意されると感情的になるなどして、集団行動がとれず、学校生活に適応できない。制約の少ない幼稚園・保育園と規則の多い小学校の環境の格差、家庭教育の欠落・不足による基本的生活習慣・自制心の獲得の遅れなどが原因とされる。

デジタル大辞泉 より)

いまさらなるほど。高度な教育とのギャップというよりも、内容の格差という感じかな。確かに、そういう面はあるな。ちょっと、的を絞りすぎたかも。