傷だらけの人は、傷だらけの人を癒やすことができる
高齢ひきこもり問題が、にわかに脚光を浴びている。もちろん、マイナスな面で。
当然のごとく、ひきこもりは、エボラ出血熱などのように突然降ってわいたウイルスではない。以前からあった問題を放置したツケが回ってきたのだろう。ツケはあとになるほど、回収が困難になる。
この引きこもり問題については、色々な意見が散見する。自己責任的意見や、寄り添う社会になろうなどなど。いろいろだ。
個人的には、高齢になったひきこもりの方々が社会にリターンしてくるのは、とても難しいと思っている。早いうちに手を打つべきだったのに…と半ばあきらめムード満載である。
それでも、なんらかの手があるとしたら、マイナス要素がもつ癒しのポテンシャルである。
かくいう私。かつてうつ病を発症し、引きこもった経験はある。
まぁ、今考えると自宅ひきこもりは1年ちょいくらい。可愛いもんだ。しかし、ひきこもりが終わったのは、自殺未遂→精神科への半強制入院なので、実際は可愛くはない。
さて、ひきこもった経験をもつものは、あの闇をどう表現するだろうか。
私は、どうだったろうと考える。一日中何をしていたろうか。あ、たまにパチスロには、なぜか行っていた。頭を空っぽにしたかったからである。
ひどい状態で覚えているのは、今でいうガラケーで、朝から晩まで一日中テトリスをしていたことだ。本人としたら、自覚がない。気付いたら、20時間くらいが経過していたということである。
ご飯も食わず、あんな単純ゲームをである。ふと気づいた夜中、俺の頭は本格的におかしくなった…と絶望したものだ。
ひきこもりから程なくして、友人からのどうしてんだ?仕事やめてから?みたいなメールにも反応できなくなった。
付き合っていた彼女(5年も!)とも、無言で距離をおいた。自然消滅狙いだ。
ひきこもるごとに、徐々に、外とのつながりを消していった。そして、実家にいたので、話すのは両親のみ。はれて、りっぱなひきこもり家族のできあがりである。
もちろん、親のストレスもすごいだろうが、本人のストレスもすごい。睡眠障害に加え、ストレス性のアトピー性皮膚炎も発症。かゆいし、眠れないし、家を出れないし。
となると、やっぱ、死にたくなるんだよなぁ。
もちろん、主に日中家にいる母親へ暴力はしていないが、恨み言をクドクドと話していた。今考えれば、ひどく哀しい惨状であるが、このときの感情で最も強かったのが「恥」である。この状態が、本人としては恥ずかしくて仕方なかった。
誰にも知られたくなかったのである。
紆余曲折しつつ、私はひきこもりから強制的に外に出され、入院したわけであるが、そんなになった自分の存在自体が、恥ずかしくてみじめで仕方なかった。
いっそ、死んでしまいたいと思っていた。だが、病院にぶちこんだ両親への恨みは不思議とそれほどなかった。というか、人生に疲れ切って、恨むパワーもなかったのだろう。
ところがココで意外なことが起きた。
病院には、「恥ずかしい人たち」がいっぱい居たのである。つまり、私いや、私をしのぐ強者たちが沢山いたのだ。
まずもって、私と同部屋の横に寝ていたおじいさん。話してみると、内装業を経営していたが、借金で騙され、そのあと、宗教妄想にとりつかれ、精神を病んだとのこと。歯もボロボロである。なんと、そのじいさんの兄も同時入院していたのだ。ちがう病棟に。
このおじいさんに、私はかなり救われた。
慣れてくると、ちょっとした談話のスペースがあることに気付いた。わらわらと男女の病んだ人たちが集まって、身の上などを話している。タバコをすったり、コーヒーを飲んだりしながら。
私はある日、そこに勇気を出して加わってみた。そこで展開される話は、恐ろしいほどひどい体験話ばかり。
あぁ、俺だけじゃないんだ。いや、俺なんかレベル低いじゃないか、と思えた。
私が身の上を話すと、それはそれで深刻な顔で聞いてくれる彼ら。しかし、彼らは話の途中で脈絡なく、ふとどっか行ってしまうことも。それに対しては、みな無関心。
なぜなら、精神が不安定な人たちであると、皆が認識しているからだ。途中でどっかいこうが、突然怒ろうが、泣こうが、淡々と見ているだけである。
この心地の良さは救いだった。みなが、ここにいる人たちの弱さを認識している場。
自分がどのように振る舞っても、問題にされない。そう認められているその場所。
そういう磁場には優しさが自然と漂う。
この場所が、私の回復の一助となったのは言うまでもない。
もちろん、人を殺めた人間に同情の余地はない。
しかし、重度のひきこもり者たちは、同時に、同じ立場の人間を癒やすことができるポテンシャルを秘めている。
役所や、専門家だって、無力だと思う。なぜなら、最終的に人間が求めるのは共感だからだ。弱者支援をしていようが、現在、人生が安定している人たちに重度引きこもり者への共感は生まれない。支援者が、どれだけ自分の悲惨だった体験を過去からピックアップして共感しようと、無理だ。その比ではないから。
そういう意味では、そのようなヘビーすぎる経験を積んでいる、重度ひきこもり者が、ただただ苦しんだ末、塵くずのように消えていくのはもったいないと思う。
ましてや、親に臭いものに蓋をするがごとくその命を消されるなんて…。
かつて、私は病からの回復期にいい言葉を集めていた時があった。その時に出会ったこの、星野富弘さんの詩。
わたしは傷を持っている。
でもその傷のところから、
あなたのやさしさがしみてくる。
(星野富弘)
傷をもっていることは、悪いことではない、むしろいいことだと肯定してくれる詩。
また、精神病棟での経験を通して、以下の詩もいいなぁと思った。
よろこびが集まったよりも
悲しみが集まった方が
しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも
弱いものが集まった方が
真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも
ふしあわせが集まった方が
愛に近いような気がする
(星野富弘)
私は、論理的な思考や効率的な考え方も好きである。生きる上では必要だからね。
でも、悲しみも弱さも不幸せも世の中には、絶え間なく起こっている。
今を楽しく過ごしているとき、そういったことにさらされている人たちのことを思いやることも忘れてはいけない気もする。
いつか、また、苦境に立たされることも有るだろう。そのときに備えて。