おじさんにもなって、人見知り…これはイカンと思った私が心がける2つのこと。
ガクトが言ってた。
人見知りはせいぜい20代前半。ガキだけに許される言葉だと。
おおいに、うなずける。
いわんや、おじさんにもなって「人見知り」とは。恥ずかしい限り。
でもね、やっぱりどこまでいっても性格ってもんはあると思う。
性格はもとからもっているものと、環境因子が合わさって形成される。わたしの記憶から、ほんとに幼いときからおとなしい性格だったもんね。
まぁ、人見知りという言葉はあれだけど、内向的なんだよね。
まぁ、ガクトは主に仕事面や組織面で言っているので、かなり的を得ているが、逆に、そういったビジネス面だけ社交性を発揮する人は、ちょっと信用できない気もするんだよね。
最近あった虐待の父親の過剰な社会における社交性とか、怖いもん。
テクニックでそういったものを使い分ける人って。
とはいえ、知ってほしいのは人見知りの人は、常に損してるなぁ、社交的になりたいなぁって思っているってこと。
最近「超一流の 雑談力」というコミュニケーションの教科書みたいな本が、キンドルプライムで読めたので、読んでみた。
しかし、途中でギブ。
もう、普段から笑顔を求めていたり、人からおおっ!て思われる情報を持つために、日経産業新聞読め、だとかハードル高すぎ!ちょっと気持ち悪くなってしまう。
とはいえ、最近マンションの理事になったりだとか、こどもの送り迎えだとか、なれない人と話す機会が多いので、なんとかしなきゃと思っている。
そこで、ハードルを思いっきり下げてみた。今年は、これを実行する。
- 早めに相手の名前を呼ぶ
- 2度目に会ったときも極力フランクに
なんと言っても、実行すべき一丁目一番地は、相手の名前を呼ぶ。
照れくさいんだよね、おじさんのくせに、これが。なんか、社会人のくせして、お恥ずかしい…。
でも今年は、相手より先に相手の名前を呼ぶ!という、この高いハードル(低!)を超えてみようかと思ってる。
逆に、呼ばれるとやっぱり嬉しいんだよね。存在を早めに認めてもらえたみたいな。
あと、案外あるのが、メールとかで活発にコミュニケーションしてるのに、合うといまいち、冷たかったり。
初対面で打ち解けたくせに、再会するとギクシャクしてたりってやつ。
内向的な人に多いんだよね。こういうの。我ながらどういうつもりなんだろうね。
分析するにやっぱり恥ずかしさとか、相手はもう忘れてるし…みたいな内向的な人特有のネガティブシンキングが働いているのでは?と思う。
これもイカンな。
内向的な人って、個人的にはすごい好き。内面は案外奥深いからね。
でも、内向的な人は誤解を受けやすいし、内向と内向はそもそも、お互い消極的なので出会わない。
なので、今年は、ちょっと上記の2点を心がけて、自分なりの冒険をしてみようと思う。
単純労働に高齢者が増えている気がする
これから進む、少子高齢化社会。
でも、住んでいる場所や状況によっては、そう?みたいな人もいるかもしれない。
かくいう私も、街に出ると子育て世代がたくさんいたり、そもそも行楽なども、子ども中心の生活なので、子どもがいるところをうろつく。
そうなると、なかなか実感できないこともある。
ただ、ちょっと気になるのは、単純労働の仕事で高齢者をけっこう見かけることだ。
新聞配達や交通量調査や交通誘導など。決して楽な仕事ではない。
早朝ジョギングしていると、チャリンコに乗って新聞を配る高齢の方。
交通量調査や交通誘導で夏場に真っ黒になった高齢者の方。
かつて、こういった単純仕事は、学生の専売特許であったはずだ。
かくいう私も、交通量調査や騒音調査を長時間やった(12時間、ときには24時間!)
たしかに、こういった仕事は給与がいい。
しかし、まじでキツイ。
同じ場所で、同じことをする。夏とか冬なら地獄の苦しみである。
でも、若さの特権として体力がある。また、稼いだ金の使い道(デートや海外旅行や飲み会など)に思いを馳せて耐えられる。
でも、このような辛い仕事をなぜ、定年を迎えただろう高齢の方がやるのだろうか?
答えは簡単である。
生活費を稼ぐためであろう。家にいるとボケちゃうから、働きたい。という人も一定数いるかもしれない。
でも、そういう人はもっと楽な仕事をするのではないかな?
あとひとつ、辛い事実として、引きこもりの子どもを養うため…、というのがある気がする。
かくいう私も、短期間であるが引きこもりになったとき、父が定年の年であったのを会社に頼み、予定を延ばして働いていた。
今となっては、すいませんという気分であるが、そういう人も多いのかもしれない。
そんなことを考えていたら、ちょっとキツイ事件が最近起こった。
山形の高齢夫婦変死事件で長男が逮捕された事件だ。
しかも、この事件の場合、孫もいたらしい。いたたまれない。
こんなに頑張って、この結果かと…。
まぁ、他人には全容はわからないのだが、キツイ。
尾畑さんみたいに、生きがいとして、いきいきと生きている高齢者がいる一方、やむなく厳しい現実に生きている人もいる。
それが、少子高齢化社会の現実でもあろう。
そして、残念なことに、それは始まったばかりである。そして、解決策がほぼない。
ぶらり映画鑑賞記 アリータ バトルエンジェル
本日は、アリータを鑑賞。吉祥寺オデヲンでは最終日。早くない!?終わるの。
なんと原作は「銃夢」という日本のコミック。知らなかったけど、アキラ的なやつ?こういった作品てアキラで片付けられちゃう気がする、このおじさん世代でわ。
観客は遅めの時間帯ということもあり、10人未満。かなりゆったり見れた。
とにかくアクションと、敵の獰猛なキャラがわんさか。
これ、よく実写化できたなぁ。すごい技術。
アリータも顔はアニメ。なんだか、実写の世界に、アニメヒロインが紛れている感じ。それも違和感なし。
終始、アクションの凄さに圧倒されっぱなし。
かなり未来の話なので、内容は若干ついていけず。でも、迫力満点で面白かった。
しかし、ハリーポッターでもファイナルファンタジーとかでも、仮想のスポーツを考え出すのが好きだね。SFの人たちは。まぁ、総じて玉の奪い合いだけど。
アンドロイドのアリータと生身の男の恋愛シーンもあった。
なんだか、LGBTならぬ、こんな恋愛も将来でてくるのではないだろうか?
どう考えても、続きがありそうな終わり方でフィニッシュ。二時間以上の大作だった。
帰りがけ、青葉で特製ラーメン(900円)を食す。
ここの青葉は、つけ麺食べたこと無いけど、ラーメンはもうひとつかな。
知っている青葉の味と少し違う。しょうゆのこってり具合がもう少し欲しい。
麺はシコシコしてて美味しいけどね!
経験からして体罰がまったく身にならない理由
「やめてーー、あつい、あつい。あついからやめて。もうしないからっ」
とめどなく流れる涙。腕を抑えつけられたその上に、母がのる。
その手にはマッチ棒。
擦ったマッチ棒に火がぼうっとつき、それを母が吹き消す。
ほどなく、僕の指に押し付けられるマッチ棒。
「ああっ、あついよう」
指に押し寄せる痛みに、涙する。これは、痛みの涙。さっきのは恐怖の涙。
その後の記憶は、ひたすら水ぶくれした指を撫でている記憶。
ブヨブヨとした指を撫でている。
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これは、私が子供のときに起こった出来事である。
母が、私にしたお仕置き(しつけ)である。
さて、家庭内での体罰を禁じる法案ができるとか。
私は、基本的にしつけと称する体罰には大反対の位置にいる。
その後に残るのは、嫌悪と恐怖だけである。
そして、それは、永久に続く。
老人と若者の違いは失敗からの学びの多さである
日本のことがいろいろと決まる政治の場を移した写真にはもれなく、老人の男性たちが多い。
IT系のことさえ、えっ、この人たち詳しいの?という老人たちが並ぶ。
スクリーンショット禁止とかもね。ネットのセキュリティー担当大臣が、USBも知らないとかね。経団連とかも、相当な老人。
主要な企業の重鎮も老人たち。もちろん、功績はすごいと思う。
がむしゃらに働いてきたり、日本を作り上げてきた人々。
しかし、そろそろ引退してもいいんじゃないかなぁ。
スポーツ界を見てみればいい。もはや50代で活躍している人なんていないでしょう。まぁ、レジェンドのカズくらいだ。
プロレスは結構いる。でも、あれもある意味レジェンド。例外ね。プロレスの重鎮たちは、今でも若者を魅了するカリスマ性がある。
まぁそれはいいとして、少なくとも政治や経済の主要な場には、もっと若者がどんどん参加できるようにしてほしい。
かつての老人の役割は、抱負な知識であった。しかし、いまやネットで検索すればあらゆる知識を瞬時に得られる時代だ。老人に聞く人はいない。
あらたな役割が求められるけど、それは新しいイノベーションが求められる、政治や経済の場ではない。
会議なんていくらやったって無駄である。
若者に任せると、もちろんミスや失敗をするだろう。手痛いやつを。
しかし、老いた人もまた失敗を犯す。
しかし、その後の対処が若者と老人では全くちがう。
若者と老人の失敗後の明確な違いは、学びの多さである。若者は、一つの失敗から多くの学びを得る。そして、まだまだ活性化された脳をつかって、次へと修正できるのだ。
政治にしたって、なんか失敗しても、次にもっといい政策ができるはずだ。
会社の経営もそう。
残念ながら、結構な年を食っていると失敗をまず認めない。認めても次に活かさない。というか、活かしている時間がないから、そのまま有耶無耶。
人間にとって、どのくらい自分のライフが残っているかはとても大事である。
残りが多いと、必死に考え修正する。少ないと、そうは行かないだろう。
とにもかくにも、やはり、未熟な若者をもっと大事なステージに起用できるような社会になれば、いいなと思うのだがね。
なかなか、どかないんだよなぁ。
昨今SNSのバカッターとかが流行りだ。こういった子たちにも失敗からの学びをあげてほしい。だって、まだまだ実質のライフは沢山あるんだから。
若者を追い込んだ先にあるのは、通り魔殺人とか、親族殺害とか、凄惨で救いのない光景だ。
社会は自分の周りの子達が楽しければいいわけではない。
自分の愛する子たちが生きていく世界は、追い込まれた子たちが生きる世界と同じだ。
この視点が欠けている人が案外多いのは残念である。
他の子どもたちへの支援が、自分の子たちの支援と同じくらい大事なのだ。
いじめられっ子の学習性無力感
ドメスティック・バイオレンス(DV)被害における、被害者の心理状態を説明するのに用いられる「学習性無力感」。心理学者のマーティン・セグリマンが1965年に提唱した研究から来ているらしい。
無力を学習によって身につける、という意味。
英語だと「Learned Helplessness」となる。
人生のいたるところにある無力感を感じる機会
スポーツで自分のミスで負けたり、受験に失敗したりとか。無力を感じることって、人生の中で普通に生きてれば、いつでもあるものだ。
しかし、無力感を感じてから、よしもっかいやろう!となって、成功する。
これが、いわゆる成功体験である。
プラスのスパイラルによって、我々は努力を学び、努力による成功によって、脳内アドレナリンがでて、気持ちよくなる。
しかし、これが、努力しても毎度失敗するとどうなるか?
もう努力しても無駄だろう…。となってしまうのだ。
DVの場合だと理不尽な暴力から逃れようと努力するが、毎度の暴力に身も心もやつれ、やがてこの人に逆らっても無駄。となる。
これが、学んだ無力感(Learned Helplessness)である。
尼崎連続殺人事件のマインドコントロール
実験用のラットに、扉を出ようとしたら電流を流す。この実験を繰り返すと、周りの柵を取り払っても、まったく出ようとしなくなるらしい。
人間も動物だ。このラットと同じような状態になる。
最近では、千葉の小学生虐待死事件の母親が父親に手ひどいDVを受けており、学習性無力感の状態だったと言われている。
「尼崎連続死傷事件」の角田美代子や「北九州監禁殺人事件」の松永太も、このLearned Helplessness(学習性無力感)を利用して、支配していた。
最近読んだ尼崎事件のノンフィクション本「モンスター」によると、実に巧妙に家族間で殴り合いをさせて、段階を踏んで無力感をぎっちり植え込んでいる。
この無力感の怖い点は、相手を持ち上げてしまうところだろう。暴力をふるわれるのは自分が悪い、と。
どこで、この価値観のすり替えが行われてしまうのだろうか?
恐怖というのは人間が持っている根源的なものだ。そこを巧妙に利用するバイオレンスは実に怖い。
いじめ被害者は能動的な行動はとれない!?
じつは私も、中学時代にヤンキーに目を付けられ一定期間暴力を受けたことがある。
いじめといっていいだろう。この記憶は染み付いているし、ことあるごとになぜ、反撃しなかったんだろうと自分を責める気持ちがわく。
しかし、体の小さく気が弱かったので、そのときは仕方なかったのかもしれない。
私は、よくそのヤンキーが私に謝って仲良くなる夢をみていた。
夢っていっても、睡眠中に見る夢。ドリームズ・カム・トゥルーではなく本当の夢。
しかもその夢のなかで、私は多幸感を感じているのだ。ありがとうとすら思っていた。ようやく彼が許してくれた、と。
そして夢から覚めて絶望するのだ、現実に。許されていないと。
今となると胸糞悪いが、これは学習性無力感によるちょっとした支配関係に陥っていたとみれる。
なんだ許されるって?悪いのはむこうだろうに。
経験からして、いじめられている子供は、もれなく学習性無力感に陥っているはず。
だから、その感覚を理解せずに、やり返せばいいじゃないかとか、逆にいじめられていたら先生や親に言いなとか、そういった本人の能動性を促してはいけない。
無力感を抱いているからだ。
周りのとくに親が、即座にすべきは、本人の意思そっちのけでも、強制的に距離を取らすことだ。
学校に行くなといって、積極的に遠ざける。これは、DV被害の妻をシェルターに強制退避させるのと同じだ。
一発目でやり返すことの重要性
被害者本人の立場で言えば、とにもかくにも、学習性無力感に陥らないためには、初期が大事である。
一発目に、返す刀でやり返す。もう衝動的に。
多少の犠牲ははらっても、最初の一発目で突っぱねた人間は、標的にはならない。(尼崎事件でもそう)。
いじめもそう。やられた一発目はまだ、無力感を感じていない。その段階で、多少の怪我を覚悟でやり返すのだ。怖いだろう。わかる、でも、やってほしい。
多少痛めつけられるだろうが、高い確率で成功体験につながるはず。
自分がいじめを受けた経験を鑑みるに、あの一発目でなぜ返せなかったという後悔がいまだに残る。
この後悔はなかなかきえない。
後悔を残さないためにも、邪悪なものには最初に対処すべきである。
おじさんは、無理を承知でそれをやってほしいと願う。
おじさんからのpython② 変数
はっきりいって、覚えが悪い。
pythonの本もProgate のサイトも着々進めているが、土曜・日曜挟むとすっかり忘れる。ひどいな、この錆びたブレインは。
ということで、忘れないようにアウトプットとしてブログへ。
今回も初期に出てくる変数について。
変数名はなんでもいいので、英単語で付けてみよう。変数名=数 という感じで。
dog =5
cat =3
これで、変数のできあがり。
dog というものの中に、5という数字が入ってます。
cat というものの中には、3という数字が入ってます。ということ。
そんで、
おなじみ表示コマンドprintを使います。
print(dog)
こうして実行すると、
5
と出てくる。
なんてことはない。
ちなみに、
print("dog")とすると
dog とそのままでてくるので、要注意。文字列と数値の問題がありますので。
ちなみに変数名は、なんでも付けていいというものではなく、
- 数字が最初にきちゃだめ
- 日本語だめ
- ローマ字だめ
と、いちおうの原則があります。
連語にする場合は、dog_cat という具合にアンダーバーでつなげるのもルール。
さてさて、
変数を使って計算をしてみようかという話。
上記に定義した変数をもとに…。
total_animal = dog+cat
print (total_animal)
この結果は、8になる。
total_animal = 5+3
print (total_animal)
これでも計算結果は同じ8。
うーーん…。
またまた、なんの意味があるのだろうか変数って?という疑いがモヤモヤと来るが、以下で納得。
変数のメリット
- 扱うデータの内容が何の数か表せる→この場合、犬と猫の数を表している
- 同じデータを使い回せる
- 変更の時一箇所だけ直せばよい→犬の数が増えたよ、という場合に変数dog の数字を変えればいいだけ。
なるほど、変数の名前は、フォルダ名だ。
その中に入っているものをざっくり説明するわけね。
ここの理解が足りなかったけど、今わかったわ。