生きたい力より死にたい力のほうが強い
何かをやめようと思っている人を止めるのは、とてもむずかしい。
周りが、ちょっと今やめなくてもいいんじゃない、と思っても、その人が強く思っている限り止めることはできない。
一度、人生をやめることを強行突破したことがある。
原因は、うつである。交通事故をおこして、仕事を辞め、ひきこもりのようになり、果てのソレである。
今考えると恐ろしいが、具体的にソレをやってしまった。
ギターシールドを衣服掛けにかけ、首に回す。
ミュージシャン的なやり方だが、まったく格好良くない。
そして、意識が飛びそうになったところで、運良くシールドが外れ、床に倒れ込んだ。
こんな感じで、実際にお亡くなりになる人は少なくないだろう。
その直後、父に現場をみつかり、私は病院送りである。
結果的に、この病院送りが奏功し今の人生がある。現在、人生が続行しているのは、「たまたま」である。
さて、自殺をされてしまった周りの人間は、後悔する。まぁ、当然の反応だと思う。
しかし、その行為を止めるのは不可能である。そういう人にとって、いつだって、その時なのだ。24時間自死への回路はアクティブである。
それこそ、周りの人間が24時間ついていて、拘束でもしない限り止めるのは難しい。
私にしても、ソノ行いは実行してしまったのだ。
ソレを行わないようにするには、どうすべきだったか今も、わからない。
人間が生きたいと強く願うのは、生命の危機に瀕した時だ。
重病のときなどは、生きたいと願う。
では、死にたいと強く願うのは、どういうときだろうか。
そう、生きたくなくなった時だ。
生きたいという願いも、死にたいという願いも、反発だ。
死への反発が、生きたい。
生への反発が、死にたい。
しかし、生きたいのに、生きれない。
と、死にたいのに、死ねない。は、違う。
死にたいと願う人は、本当に死にたいのではない。
本当は生きていたい。しかし、このまま惨めな生が継続するのなら、耐えられないので死にたい。
言ってしまえば、こんな感じである。
死にたい力は、動物的には不自然だ。
不自然ということは、猛烈な意思が介在しているのだ。
生物が本来持つ「生きたい」という意思をねじ伏せる「死にたい」という意思。
これを他者が覆すのは、生半可ではない。
あのときの自分に何ができたかわからない。
しかし、今の自分の未来を見せてやれば、思いとどまったかもしれない。いや、そもそもそんなモノ信じないだろう。
人間には、生を継続している限り、思わぬ未来がある。
これをどのように信じさせればいいのか。
私が、仮に誰か死にたいという人に相対した場合はどうするか。
第一に、症状に合わせて医療機関を調べて、まずは、化学療法をするように言う。自分もやったということをアピールして、ごく普通のことのように勧めるのが肝。
第二に、「5年経って、まだ死にたいと思うのだったら、死にな」と言う。
これは、実際、回復後によく使った文句である。
良くも悪くも「時間」というのは効果的だ。
一見冷たいようだが、5年あれば環境が変わり、死にたいという意識が薄れている可能性が高い。その予見をもとに、強めに言う。
「5年後も死にたいなら、死にな。止めないから」と。
まぁ、これはアレンジして、3年であってもいい。
この言葉は、その期間、私はあなたを気にかけているから、という合図でもある。
だからこそ、身近な責任をもてる相手にしか使えないことは、付け加えておこう。