R太のスパークリング日和

R太です。40代のおじさんです。男女2人の子育てと家事にフルコミット中。 どうにもならない日々のいらだちや喜びを書いてます。

生きたい力より死にたい力のほうが強い

f:id:a-ruta:20190216153451j:plain

何かをやめようと思っている人を止めるのは、とてもむずかしい。
周りが、ちょっと今やめなくてもいいんじゃない、と思っても、その人が強く思っている限り止めることはできない。

 

一度、人生をやめることを強行突破したことがある。


原因は、うつである。交通事故をおこして、仕事を辞め、ひきこもりのようになり、果てのソレである。

今考えると恐ろしいが、具体的にソレをやってしまった。
ギターシールドを衣服掛けにかけ、首に回す。

ミュージシャン的なやり方だが、まったく格好良くない。
そして、意識が飛びそうになったところで、運良くシールドが外れ、床に倒れ込んだ。
こんな感じで、実際にお亡くなりになる人は少なくないだろう。

 

その直後、父に現場をみつかり、私は病院送りである。
結果的に、この病院送りが奏功し今の人生がある。現在、人生が続行しているのは、「たまたま」である。

 

さて、自殺をされてしまった周りの人間は、後悔する。まぁ、当然の反応だと思う。

しかし、その行為を止めるのは不可能である。そういう人にとって、いつだって、その時なのだ。24時間自死への回路はアクティブである。

それこそ、周りの人間が24時間ついていて、拘束でもしない限り止めるのは難しい。

私にしても、ソノ行いは実行してしまったのだ。

ソレを行わないようにするには、どうすべきだったか今も、わからない。

 

人間が生きたいと強く願うのは、生命の危機に瀕した時だ。

重病のときなどは、生きたいと願う。

では、死にたいと強く願うのは、どういうときだろうか。

そう、生きたくなくなった時だ。

 

生きたいという願いも、死にたいという願いも、反発だ。

死への反発が、生きたい。

生への反発が、死にたい。

しかし、生きたいのに、生きれない。

と、死にたいのに、死ねない。は、違う。

 

死にたいと願う人は、本当に死にたいのではない。

本当は生きていたい。しかし、このまま惨めな生が継続するのなら、耐えられないので死にたい。

言ってしまえば、こんな感じである。

 

死にたい力は、動物的には不自然だ。

不自然ということは、猛烈な意思が介在しているのだ。

生物が本来持つ「生きたい」という意思をねじ伏せる「死にたい」という意思。

これを他者が覆すのは、生半可ではない。

 

あのときの自分に何ができたかわからない。

しかし、今の自分の未来を見せてやれば、思いとどまったかもしれない。いや、そもそもそんなモノ信じないだろう。


人間には、生を継続している限り、思わぬ未来がある。

これをどのように信じさせればいいのか。

 

私が、仮に誰か死にたいという人に相対した場合はどうするか。

第一に、症状に合わせて医療機関を調べて、まずは、化学療法をするように言う。自分もやったということをアピールして、ごく普通のことのように勧めるのが肝。


第二に、「5年経って、まだ死にたいと思うのだったら、死にな」と言う。

これは、実際、回復後によく使った文句である。

良くも悪くも「時間」というのは効果的だ。

一見冷たいようだが、5年あれば環境が変わり、死にたいという意識が薄れている可能性が高い。その予見をもとに、強めに言う。

「5年後も死にたいなら、死にな。止めないから」と。

まぁ、これはアレンジして、3年であってもいい。

この言葉は、その期間、私はあなたを気にかけているから、という合図でもある。

だからこそ、身近な責任をもてる相手にしか使えないことは、付け加えておこう。