R太のスパークリング日和

R太です。40代のおじさんです。男女2人の子育てと家事にフルコミット中。 どうにもならない日々のいらだちや喜びを書いてます。

出産後の夫婦円満の秘訣はマイナス体験の共有である

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子どもがいない時、夫婦で共感するのは容易であった。映画を見たり、話題のレストランで食事したり、ドラマを見たり、ゲームをしたり、料理をしたり、家具を買いに行ったりもろもろ。もちろん、同居するので生活習慣の違いに多少のぶつかりは起こったけど。

でも今思えば些末なものよ。性格の相性が良ければ、次第に帳尻があう。共感とは体験を共有すること。楽しい日々の体験や厳しいぶつかり合いでさえ、夫婦ふたりの場合は、容易に体験を共感できたのだ。

男と女の体における経験の断絶

妊娠期を含め子どもができると、共感が容易にできなくなる。当たり前だ。そもそも、体験の量が圧倒的に違うからね。妊娠~出産においての男の体験って、ほぼないのだ。お腹がしだいに大きくなり、生命の塊がドーンと出てくるとんでもない事態。このプロセスに、男はほとんど関係がない。精子をぽっと出した最初だけである重要な役割を果たしたのは。しかも、ただ、気持ちいいだけである。究極ぽっと種を落としたあと10月後に帰ってきても、赤ん坊はできている。女性のとんでもなく長く苦しいプロセスとは大違い。

育児は、この男女の経験の断絶から始まる。だからこそ、生まれてきた赤子にはリカバリーするが如くの男のシャカリキ感が必要なのである。まずもって、深層心理的に女性は男を許してないのである。フィジカルの苦しみが全然ないんだもの。

自分は、かなり家事育児をしているほうである。2人め出産時には当たり前のように育休もとった。それでも、妻が本当に、笑顔を見せたときのことを忘れない。育児は体験の共感。それも、じつは、マイナス方面の体験の共感である。

一日育児の大変さを経験

ある日初めて2歳の息子と0歳の娘を丸一日世話をする機会が訪れた。まぁ、なんとかなるだろうと高をくくっていた自分。夕方4時には、リビングに大の字になってダウンしていた。きつすぎたのだ。

なんとか、妻が帰ってきて青ざめた顔で一日の出来事をマシンガンのように話した時の妻の顔ったらない。嬉しそうにしてた。多分妻の心には「だろ?きっついだろ?」という、痛快な一言があったのだろう。

こんな状況はよくきく。子どもがいて、夜帰ってくる夫。散らかりまくってる部屋にため息。片づけとけよ。いやいや、これも体験の共感ができていない。むちゃくちゃ奇麗に片づけた部屋が、子どもが起きてきて3分以内にグチャグチャの荒野になる。そんなこと、何度も体験している。だから、自分はとてもこんなセリフ、はけない。だって、3分前は奇麗だったかもよ!?

発狂するほどの怒り体験

もともと妻はおっとりしている方であるが、子どもが出来て怒りの表現が半端なくなった。まぁ、息子がすごいわんぱくだから仕方ないけど、ある時たしなめたことがある。幼稚園のバスがくるギリギリまで用意をせずにふざけている息子。狂ったように、怒鳴りつける妻。「叱らない子育て本」を拝読していた手前、ここはイワナアカン!そんな気持ちで、「怒りすぎだよ」と強めに言ってやった。その時の自分に向けられた妻の憤怒の表情たるや…。でも、自分は正しいことを言ったと確信していた。

しかし、その翌週。はやくも撤回する機会がやってきた。妻が朝早く出て、自分が子供を送らなくてはいけない。早め早めに、息子と娘を着替えさせ準備万端。でも、ギリギリでなんだかの理由でぐずりまくる息子。迫る時間。いやぁ、発狂するほど怒ったね。泣くんじゃないかと思うくらい(自分が)、いや、ごめん、ちょっと泣いてたわ。あんな怒りに見舞われたのはいつぶりだろうか。

百の言葉より一度の体験

人間、その立場を経験しないとわからないことは多い。特に育児に関しては顕著である。例えば…

凝って作ったハンバーグを、粘土のようにグチャグチャにされる虚無感。

牛乳を絨毯にこぼされる絶望感。

投げられたブロックが額にあたったときの激痛と怒り。

様々な経験を通して、家事育児分野では、妻とは一体化しているとみていい。これはもちろん、一朝一夕にできるものではない。言葉での感謝。たしかに、ないよりいいだろう。でも、言葉なんて所詮文字の羅列の組合せだ。あ、り、が、と、う。そんなものより、体験した人間が刻む額の皺を見るだけで、癒やされるものがたしかにある。うちはこのマイナス体験の共有を繰り返し、夫婦は円満である。子供がよい方向に育っているかは謎であるが…。