いじめられっ子の学習性無力感
ドメスティック・バイオレンス(DV)被害における、被害者の心理状態を説明するのに用いられる「学習性無力感」。心理学者のマーティン・セグリマンが1965年に提唱した研究から来ているらしい。
無力を学習によって身につける、という意味。
英語だと「Learned Helplessness」となる。
人生のいたるところにある無力感を感じる機会
スポーツで自分のミスで負けたり、受験に失敗したりとか。無力を感じることって、人生の中で普通に生きてれば、いつでもあるものだ。
しかし、無力感を感じてから、よしもっかいやろう!となって、成功する。
これが、いわゆる成功体験である。
プラスのスパイラルによって、我々は努力を学び、努力による成功によって、脳内アドレナリンがでて、気持ちよくなる。
しかし、これが、努力しても毎度失敗するとどうなるか?
もう努力しても無駄だろう…。となってしまうのだ。
DVの場合だと理不尽な暴力から逃れようと努力するが、毎度の暴力に身も心もやつれ、やがてこの人に逆らっても無駄。となる。
これが、学んだ無力感(Learned Helplessness)である。
尼崎連続殺人事件のマインドコントロール
実験用のラットに、扉を出ようとしたら電流を流す。この実験を繰り返すと、周りの柵を取り払っても、まったく出ようとしなくなるらしい。
人間も動物だ。このラットと同じような状態になる。
最近では、千葉の小学生虐待死事件の母親が父親に手ひどいDVを受けており、学習性無力感の状態だったと言われている。
「尼崎連続死傷事件」の角田美代子や「北九州監禁殺人事件」の松永太も、このLearned Helplessness(学習性無力感)を利用して、支配していた。
最近読んだ尼崎事件のノンフィクション本「モンスター」によると、実に巧妙に家族間で殴り合いをさせて、段階を踏んで無力感をぎっちり植え込んでいる。
この無力感の怖い点は、相手を持ち上げてしまうところだろう。暴力をふるわれるのは自分が悪い、と。
どこで、この価値観のすり替えが行われてしまうのだろうか?
恐怖というのは人間が持っている根源的なものだ。そこを巧妙に利用するバイオレンスは実に怖い。
いじめ被害者は能動的な行動はとれない!?
じつは私も、中学時代にヤンキーに目を付けられ一定期間暴力を受けたことがある。
いじめといっていいだろう。この記憶は染み付いているし、ことあるごとになぜ、反撃しなかったんだろうと自分を責める気持ちがわく。
しかし、体の小さく気が弱かったので、そのときは仕方なかったのかもしれない。
私は、よくそのヤンキーが私に謝って仲良くなる夢をみていた。
夢っていっても、睡眠中に見る夢。ドリームズ・カム・トゥルーではなく本当の夢。
しかもその夢のなかで、私は多幸感を感じているのだ。ありがとうとすら思っていた。ようやく彼が許してくれた、と。
そして夢から覚めて絶望するのだ、現実に。許されていないと。
今となると胸糞悪いが、これは学習性無力感によるちょっとした支配関係に陥っていたとみれる。
なんだ許されるって?悪いのはむこうだろうに。
経験からして、いじめられている子供は、もれなく学習性無力感に陥っているはず。
だから、その感覚を理解せずに、やり返せばいいじゃないかとか、逆にいじめられていたら先生や親に言いなとか、そういった本人の能動性を促してはいけない。
無力感を抱いているからだ。
周りのとくに親が、即座にすべきは、本人の意思そっちのけでも、強制的に距離を取らすことだ。
学校に行くなといって、積極的に遠ざける。これは、DV被害の妻をシェルターに強制退避させるのと同じだ。
一発目でやり返すことの重要性
被害者本人の立場で言えば、とにもかくにも、学習性無力感に陥らないためには、初期が大事である。
一発目に、返す刀でやり返す。もう衝動的に。
多少の犠牲ははらっても、最初の一発目で突っぱねた人間は、標的にはならない。(尼崎事件でもそう)。
いじめもそう。やられた一発目はまだ、無力感を感じていない。その段階で、多少の怪我を覚悟でやり返すのだ。怖いだろう。わかる、でも、やってほしい。
多少痛めつけられるだろうが、高い確率で成功体験につながるはず。
自分がいじめを受けた経験を鑑みるに、あの一発目でなぜ返せなかったという後悔がいまだに残る。
この後悔はなかなかきえない。
後悔を残さないためにも、邪悪なものには最初に対処すべきである。
おじさんは、無理を承知でそれをやってほしいと願う。