他人の死は、自分の不死身-フィリピンで「死ぬ瞬間」を読んで
「死ぬ瞬間」という有名な本。エリザベス・キューブラー・ロスという医師が書いた超有名な本である。1971年刊行なのでそれなりに古い本である。
これを私が読んだのは、フィリピンセブ島であった。
一ヶ月の短期留学に来ていた私は、とっても孤独であった。
というのも、2012年当時、セブ島に留学に来る人は、若者ばかり。(今もそうかな?)
私はといえば、30代後半のおじさんである。
留学したのは、9月に子どもが生まれるその直前の夏であった。
私はじつは、留学をしてみたいという願望を昔から抱えていた。なので、英語の勉強を継続していた。そんな折、スカイプ英会話「ラングリッチ」にて、格安留学プランがリリースされていたことを知る。
さっそく、留学説明会に行くと、もう留学願望は止まらない。
子どもが生まれてしまえば、育児や家事サポートに追われ、留学などできない。
一生できないで終わるなら、今このとき。みたいな悲壮な決意で、妻と家族に頼み込んで実現したが、案外、あっさりOK。
大きな腹を抱えながら、行って来いと背中を押してくれた文字通り太っ腹の妻だったのだ。
留学自体は意外と大変だった。主に、寂しくて。
そんな孤独を埋めるように、2冊の日本語本をむさぼり読んだ。
フィリピン・セブ島を舞台にした船戸与一の小説「虹の谷の5月」。
そして、もう一つがキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」だった。
読書はよくする人間だが、内容はだいたい忘却の彼方。
とくに今のようにおじさんになってからは、物忘れがひどい。
この前も図書館で、「これ読みたかったんだよぉ」と借りた「流星の絆」(東野圭吾)は、以前に読了していた。まったく内容覚えていない。
読書メモをつけておいたおかげで発覚。
だからこそ、昔に読んだ本で、内容の断片を覚えている、ということは私にとっては凄いことである。
前置きが長くなった。
この「死ぬ瞬間」の内容は、今もって私の記憶に突き刺さっている。
この本で有名なのは、死にいたるまでの人間の心の動きであろう。
「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の5段階を経るという、心の変遷。
ここは確かに、興味深かった。
しかし、私にとって衝撃だったのは、人間がもつ「自分は不死身」という勝手な観念である。
私たちは無意識のなかでは自分の死を予測することができず、ひたすら不死身を信じている。しかし、隣人の死は想像できる。そのため、乱闘や戦争や高速道路で多数の死者が出たというニュースは、自分は不死身だという無意識の信念を裏づけるものとなり、死んだのは「隣のやつで、おれじゃなかった」と、無意識に心の片隅でそっと喜ぶことになる。
エリザベス・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間」より
人間は、ある悲惨な出来事(病気でも事故でも)で人が死ぬ情報をニュースなどで見ると、本能的に「また、自分ではなかった」=「自分は死なない」と考えるのだそうだ。
悲惨な出来事を見るほどに、自分の不死身性を高める。
つまり、人が死んだけど自分は選ばれなかった。
自分は死なないというシンプルシンキングである。
見に覚えは、大いにある。
なぜか、悲惨な出来事ほど口にして話したくなる。
これも、なんだか安心したいのかもしれない。
おれじゃなかったよね!今回も、と。
そう考えると、ある時ぽっと自分が末期がんなどで死の淵に立たされると、否認、怒りという感覚が出てくるのも、当然だ。
だって不死身って思ってたからね。
生き物の本質が出ている点で、この不死身という感覚はとても刺さった。
ところで、テレビのニュースってなんで、悲惨なことばっかりを流すのだろうか?と思ったことは無いだろうか。
私はある。もっと、ハッピーなニュースもいっぱいあるのに…と。
たとえば、事故で誰かが死んだニュース。病気で死んだニュース。通り魔に刺されたニュース。
その後に、欲求をそそるCMが入る。ここでCMを見た人はこんな感覚になるという。
「いつ死ぬかわからないから、今のうちに楽しんでおかなきゃ!」と。
おわかりだろうか、この非常に良く出来た広告システム。
テレビのニュースが一定量の悲劇を流すのは、広告料をもらってる企業のCM効果を最大化するため、というロジックである。
目からウロコ。
他人の死や悲惨な出来事を見て、
「俺は死なないよ!まぁ、でも、いつ死ぬかわからないから、今を楽しもうか!」
と相反する思惑を抱える人間という存在。なんだか、得体の知れないバケモノである。
死について考えることは、人間という生物の身も蓋もない実態を暴く。
フィリピン・セブ島で、翌月に生まれる長男を思いながら読んだ「死ぬ瞬間」。
死を考えながら生を思う。なんだか、不思議な気持ちになったことをよく覚えている。
部屋を這う、小さなトカゲに怯えながら。これも、生命だなぁ、と思いつつ…。