R太のスパークリング日和

R太です。40代のおじさんです。男女2人の子育てと家事にフルコミット中。 どうにもならない日々のいらだちや喜びを書いてます。

ラーメンは宗教である

太い弦をかき鳴らす。アンプから流れるベース音。リズムを刻むバスドラに合わせる。悪くない。今日は、リハから逆順のトップバッター。不満の残るMCの後、パンクじたてのイントロが始まる。ギターリフの二小節目から、ベース音を重ねる。手が震えた。今日は調子が悪いかも知れない。そんな言い訳を頭に浮かべ、思いきりよくシャウトする。いつも見慣れた人たちに囲まれた打ち上げは、心地よかった。所詮サラリーマンバンドだ。観客もたかが知れている。しかも、サラリーマンバンドのくせに、テクニックからなにまで、成熟していない。ストレスフルな日常を、うだつの上がらない音楽に乗せる。そこから生まれる、シリアスなコミカルさ。われらスリーピースバンドの意図していない魅力である。それでよかった。

 写真のなかで微笑む、ベースを抱えた自分。十数年前の楽しい時代を回想しながら、子どもの相手をする。常に、楽器への向上心はもっていた。が、なかなかできない。

ギターを弾くと寄ってくる息子と娘。子どもはなぜ、大人が最も嫌がることを敏感にかぎつけるのだろうか。感服する。弦楽器好きにとって最も嫌なこと、そう、ペグを回されることである。チューニングが一瞬で狂うのだ。

そんなこんなで、子どもがいる時に楽器の練習はできなかった。

 しかし、そんなおり、近くに安価な個人レッスンのギター教室を見つけ、月に一回程度通うようになる。講師の個人部屋のようなところで、フリースタイルでやるレッスン。なにか居心地が悪いようで、良かった。会話が弾まない不器用なギター講師も、結構好きだった。
もちろん、不器用さはお互いさまである…。いや、こちらのほうに分があるかもしれない。ある時突然、料金が上がった。まぁ、個人でやってるし財政事情もあるだろう。しかし、こちらの財政事情も芳しくなかった。

それでも、たまに通っていた。個人で自分の技術だけで営んでいる講師という仕事に敬意もあった。ここ最近はちょっと忙しく、数か月通うのが遠のいていた。

ある日のSNS

そんなある日、偶然その講師のツイッターを見た。なんと私が好きで、定期的に通うラーメン屋をこっぴどくこき下ろしているではないか。カッチーン。むらむらと怒りが湧き、そのあと、哀しみが襲う。
そう。以来、彼のレッスンには行っていない。

ラーメンと宗教は似ている。批評するのは自由だ。しかし、それに傾倒している人もいるという意識も、多少持っておかなくてはならない。ラーメン。個人的には宗教に似ていると思う。

おそらく、映画や音楽など一般的なもので自分の好きなものを貶されても、まぁ人それぞれだしと思える。ラーメンという特殊なフードが提供するカタルシス、そこには、神聖不可侵ななにかがあるのだ。気に入らなければサイレントクレーマーになればいい。しかし、その店先の写真をのっけてまで、こきおろすことは許されないに違いない。

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